大切な人の死

お久しぶりです、にっくーです

突然ですが先日、父が他界しました。

何年か前から入退院を繰り返し息を引き取りました。

私は今年の三月ごろに下宿先から地元へ就活をしに帰省していました。今回は父と過ごした半年間と父が亡くなってにっくーが感じたことを書いていきたいと思います。

 

 昨年までは三カ月に一度のというペースの入院だったのですが今年の4月からまた体調を崩し入院のペースはどんどんはやくなっていきました。4月からは新しい病気もどんどん発生し、父は病院に行く度に落ち込んでいました。しかしその度に気持ちを整理して自分で立ち直っていました。一度は死にたいと言って大量の薬を飲まないときもあり、私はそのとき初めて大切な人に長生きしてほしいという考えは、自分が心を痛めたくないという思いから来る自分のための考えなんだと気づきました。わがままを言っていることは承知の上で、それでも父に生きてほしいと伝えました。

 父は病気が重くなるにつれ行動的になりました。こういう状態になって初めて、自分のやりたいことがはっきりしてくるのだと思います。しかしその思いとは裏腹に体の方はどんどん動かなくなっていき、6月ごろに腰を痛めてからは階段も登れなくなり、料理も作れなくなっていきました。そのとき父は、「まだやりたいことがいっぱいある。」と落ち込んだように言っていました。私は父が生きたいと思っていることが嬉しくてでも父のやりたいことが思うままさせてあげられないことが苦しかったです。

 身体を動かせなくなった父はどんどんネットショッピングをする様になり、モノを買って家を便利にすることで家庭に貢献しようとするようになりました。我が家は祖父母の力を借りなければ子どもを大学に行かせてもらえてなかったくらいの貧困世帯なので父のショッピング狂いに母も怒り、子どもたちも父が無駄な買い物はしないように注意することがありました。私たちは父が生きていてくれればそれだけでよかったのですが、父はそれでも私たちの役に立とうと頑張ってくれていました。

 父は寝たきりの生活が続いてから、気もさらに短くなって、ごはんを食べる量もそれまでの半分以下になりました。また肩身が狭くなったかのように家族にお願いをするようになりました。私は、ほぼずっと家にいたので父が行きたいというところに車で連れて行ったりしていました。介護と就活の板挟みにストレスも溜まり、父と衝突するようになりました。衝突した後は、父はやりたいことを思うままにできないことを分かっていながら怒っていしまう自分を責めていました。今思えば、父も私も軽い鬱になっていたのだと思います。

 途中から家族も地元に帰ってきて、私も一年間バイトを籍を置いたまま休んでいたので大学の方へ帰りました。父とは週に一度電話をしていました。電話をしたときはいつも明るく振舞ってくれていましたが、体調はどんどん悪くなっていきました。母から父の容態が急変したと連絡が来て地元に帰りましたが、新型コロナウイルスが流行っている時期だったため病院には入れませんでした。しかし父はそれから一命を取りとめ、県外から帰省した子どもたちを待っていてくれたかのように調子を取り戻し点滴でしか栄養を取れなかった状態から、口から重湯を取れるくらいにまで回復しました。しかし会えてからはまた体調を崩しそれから数日で息を引き取りました。

 

 父が亡くなったとき、温かかった体がどんどん冷えて父の死を感じずっと泣いていました。しかし父が亡くなった悲しみに浸らせてくれるほど現実は甘くはありませんでした。すぐにセレモニーに父を連れて行かなければならないので、父と別れて病院を出ました。それからは葬儀なども一人になることはなく、私は父が亡くなったのにどうしてこんなに明るくいれるのか自分がおかしく感じました。葬儀も終わってやることもとりあえずは終わって一人になってからは、父がこの世にいない事実が悲しくて辛くてずっと心にしこりができている感じです。

 兄弟たちは父が亡くなってから幻聴で父の声が聞こえたと言っているのに、私は父の夢も見れないので寂しくて仕方がありません。家族が全員揃っていた時、父だけがいない空間にもずっと違和感を感じていました。ずっと一緒にいたときに強く当たってしまったことを謝りたくても謝れません。父がやりたいことがまだいっぱいあると言っていたことはほとんどできずに父は逝ってしまいました。当時の私は余裕もなく体力もなかったためやりたいこと全部を完遂させるお手伝いもできませんでした。正直、私にできることはすべてやったつもりですが、もっと父の心に配慮して父が後悔なくこの世を発てるようもっとたくさんお手伝いできなかったのか自分を責めるばかりです。

 

大切な人の死はどんなに予兆があっても突然起こったように感じます。そして後悔なくこの世を発つことも、送り出すことも非常に難しいことです。自分は父の役に立てていたのか、何をどうすれば父も家族も納得いく形ですべてが終われたのか、考えても答えは出ません。また、精神への影響も配慮して父には余命などに関わることははっきりと話されていませんでした。父は旅立つときどんな気持ちでいたのか分からないし、もうすぐ死んでしまうことを自覚していたのかも分かりません。分からないことばかりですが大切な人がいなくなった瞬間に自分の世界は、この人のおかげで成り立っていたんだと気づくほど世界に違和感を感じます。何を見ても父を思い出し、どうして父がいないのか不思議に思います。父の死から立ち直ることは中々できないでしょうし、まだまだ立ち直りたくないと思う気持ちもあります。それでもひとつ思うことは、今生きている大切な人たち、そして父のためにも私は自分のできることをがんばっていきたいです。

 

最後に、父をこれまで治療してくださったお医者さん、看護師さんたちに本当に感謝しています。治療してなかったら父がここまで生きながらえることはできませんでした。そして看護師さんがいつも明るく父を元気づけながら看護してくれたことで父も元気をもらっていたと思います。父が亡くなったときも時間の許す限りそばで手を握らせてくれました。看護師さんはずっと近くでまだ生きてるよと声をかけてくれていました。病院の方々からすると私たち家族はすごく迷惑な家族だったと思います。それでも文句ひとつ言わずそばにいることを許してくださったこと本当に感謝しています。

 ここまでには母のことについては書いてはいませんが、母はいつどうなるか分からない状態の父を数年間毎日支えていました。仕事をやめようともしていましたが、父は母が仕事を辞めることを嫌がり母は仕事をしながら、休みの日はいつも父の通院に付き添っていました。仕事をしていたから気分転換になったと言っていましたが仕事と介護の両立は非常に大変だったと思います。父と母はケンカが多かったので介護のストレスは私よりも大きかったと思います。本当に母には頭が上がりません。これからは母を支えていけるように私も頑張ります。

 

薬が嫌いで2年前まで薬ひとつを毎日飲まずに大量にため込んでいた父が、大量の薬を毎日欠かさず飲み、

 痛みに弱い父が、苦しい検査や治療から逃げずに病院に通い続け、

 歩くのがしんどくてもトイレだけは自分で行き、体を思うように動かせなくても自分のことは自分でやろうとていた父、

 進行性でこれから良くなることはない病気に苦しみながらも戦い続けた父を本当に誇りに思います。

 

お父さん本当にお疲れ様です。今まで頑張ってくれてありがとう。ここまで育ててくれてありがとう。愛してくれてありがとう。世界中の男性でお父さんが一番大好きです。

 

 

父は私の卒論と就活をいつも心配していました。実は情けないことに私はまだ就活が終わっていません。今になってもやりたいことが分からず、ふらふらしてしまっています。はやく父に卒論と就活どっちも終わったよ!と報告をしたいです。

 

今回は病気と闘ってきた父のことを誰かに知ってほしいのと、いろんな思いがぐるぐるしてる自分の頭を整理したくてこの記事を書きました。

長い上に乱文ですみません、ここまで読んでくださりありがとうございます。